20180121 UPLAN ひだんれん「いのち・暮らし・人権を考えるシンポジウム」
https://www.youtube.com/watch?v=1JaVYyu2GgQ
 
(感想および連想)1月29日修正

人権とはなんだろうか?
普通の人々である被害者自身のことばとして「著しい人権侵害を受けている」こと,「どのようにして奪われた人権を取り戻したらよいのか」という明確な表現が出されていることは,これまでにない動きではないだろうか? 特定の団体のことではないが,これまでは全体として「人権」というコトバ自体が忌避されてきた印象がある。コトバとしての「人権」への言及は,より明確に問題にせまろうとする被害者の強い意志の表現とおもわれる。

「人権」はわたしたちが「ある」と信じるから存在する,のではない。また,もし権力者が「(おまえたちに人権など)ない」といえば存在しない,というわけでもない。どこかに客観的根拠(人権の法源)があるから存在する。人権の法源を確立してきたのが世界史(の一面)である。気をつけたいことは,人権の法源を国内の視野だけで考えるのか,世界の視野で考えるのか,ということである。
国内の視野だけで考えるのであれば,日本国憲法が最高法規として登場する。しかし,その場合,国際法には無関心のままで,かつ国連からの勧告には無反応のままになりかねない。
2017 年の国連人権理事会ではポルトガル政府代表から,「日本政府は原発事故被害者に「国内避難民の指導原則」を適用するように」勧告されているが,これに対しても,被害当事者の運動が反応せず沈黙することになる。国際社会から日本政府に対して具体的に勧告が出されているにもかかわらず,被害当事者の運動がこれに反応せず,沈黙し,傍観している状況がある。これでは日本国内の運動のすすむべき方向を市民に提案できないだけでなく,海外に原発事故の被害事実を知らせるにしても,なにを基準として発信すべきなのかがわからない。その結果,たとえば国内避難民と難民を混同するような発信をするような例もあり,自分たちが混乱することになる。国際法に無関心な日本の市民運動の方向性が,国際社会から孤立するのは自然のなりゆきである。
基本にもどるが,日本国内において,もし日本国憲法が人権の唯一最高の法源であるならば,現在公表されているような緊急事態条項をふくむ憲法改正案が成立した場合,日本人はおそらく人権の法源を失うことになる。

世界的な人権の立場(国際人権法)からは,災害や紛争などの被災者,避難者は,加害責任とは関係なく,社会全体で保護すべきものとされている。その実務に責任をもつのが政府,地方自治体などの公共機関であり,さまざまな民間団体や市民がこれに協力する。それが世界的視野における災害被害者保護のおおまかな「わく組み」である。
ところが,原発事故の被害者が公共機関と交渉しようとする場合,「避難先の地方公共団体に対して保護を求めることはまちがっている」かのように,被害当事者のなかから声をあげる者がある。なかには被害者同士で攻撃,侮辱,妨害の態度をとる者が出てくる。そこで被害当事者や市民内部の分断が起きる。分断は加害者だけが起こすとは限らない。被害者・市民内部の無知,独善がおなじ被害者・市民を苦しめるのである。

わたしたちは国内の視野にとどまらず,世界の視野で人権について理解すべきだろう。原発事故被害者の人権(の法源)を考えるとき,単純にいえば 3 つのステージがある。
国内法,国際法,外国法である。
国内法のステージには,憲法が最高法規として登場する。(しかし放射能災害時の人権保護法は空白である。)
国際法のステージには,確立された国際人権法の体系とそれを保障するための国連の人権システムがあり,その成果の一部が「指導原則」であり,「グローバー勧告」であり,人権理事会における日本への勧告である。全体の視野をもてば国際法のステージが見えるはずである。
外国法のステージには,日本でもてはやされた「チェルノブィリ法」がある。参考にすることは大切だが,国の構造や思想が根本的にちがうので同じようにはいかないだろう。外国法のステージは個別の視野から見えるものである。
チェルノブィリ法を条約化して「チェルノブィリ条約」を提唱する意見もあるらしいが,このような条約化はできない(すべきでない)からこそ,国連の人権システムが現存し,機能している。原発事故被害者を期待させておいて疲弊させるような運動には注意しなければならない。いずれにしても「チェルノブィリ」というコトバを表面的にもてあそんではならない。

あたらしい被害者救済立法は,全体の視野のなかで,国内法の構造的空白を自覚しつつ,外国法の欺瞞的模倣ではなく,すでに確立されている国際人権法と(そこからみちびかれているグローバー勧告や,指導原則などの)世界標準を国内立法化することが正しい道に近いであろう。指導原則は,すでにフィリピンでは国内立法化され,アフリカ連合では地域条約化されている。日本の人権は世界から大きく立ち遅れている。日本の市民運動には方向性をまちがえないようにする責任がある。
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(朝日新聞)
日本の人権状況、各国から218の勧告 国連人権理事会
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171117-00000011-asahi-soci
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記事のアドレス http://starsdialog.blog.jp/archives/74630778.html